五月祭シンポジウム2006  

最終更新日
2007年06月15日

【五月祭シンポジウム2006】

サッカー部OBが語る「ワールドカップとその世界」

東大ア式蹴球部主催、中間法人東大LB会協力により、2006年5月27日(土)13時から、東大本郷キャンパス法文1号館27号教室において、掲題のシンポジウムが五月祭の一企画として行われました。

ワールドカップが間近に迫った時期の好企画であったこともありますが、講師が長年日本サッカー界の発展に貢献されてきたわが東大ア式蹴球部が誇るOB三氏であったことで、あいにくの雨空にもかかわらず定員140人の教室は200人近い参加者により立錐の余地無く埋まりました。立ち席での参加となった現役部員は大変ご苦労様でしたが、彼等を除く参加者の半分が一般の方々であったことは特筆に値します。

第1部の三氏による講演はワールドカップへの視野を広げてくれるものでしたし、第2部のパネル討論も大いに盛り上がり、当初予定の閉会時刻15時を半時間以上もオーバーし、15時45分に閉会しました。

以下にシンポジウムの内容を記録します。

 
第一部
岡野さんの話  浅見さんの話  牛木さんの話 
 
第二部
パネルディスカッション 
 
附録
競技規則、審判から見た最近のワールドカップ 
東京大学五月祭シンポジウム ちらし 

(司会)今西康雄氏(現役部員・工学部4年)

本日は降雨にもかかわらず多数の皆様ご参加くださり大変ありがとうございます。司会を勤める東大サッカー部4年の今西康雄と申します。 よろしくお願いします。

本日のシンポジウムは東大サッカー部が主催し、このたび法人化したサッカー部OB会中間法人東大LB会の協力の下に行います。 二週間後に迫ったワールドカップをテーマに、第1部では、東大サッカー部OBの岡野俊一郎氏、浅見俊雄氏、牛木素吉郎氏の御三方による講演をお願いします。 ワールドカップについての興味深いお話しをしていただけると思います。第2部は講師の御三方の他に3人の方にパネリストとして加わっていただき、パネルディスカッションを行います。このシンポジウムを通じて新しい大学スポーツ部のあり方についても模索したいと思っております。

なお、本日のシンポジウムでの写真撮影は予め登録された報道関係の方々とLB会の写真係のみに限定させていただきますのでご協力のほどお願いします。

それでは、早速第1部の講演に入ります。
まずはじめに『ワールドカップとオリンピック』と題して岡野さんにお願いします。


『ワールドカップとオリンピック』(講師)岡野俊一郎氏

ご紹介いただきました岡野でございます。座って話すようセットされていますが、グラウンドではいつも立っており(笑)座ると調子が出ないので立って話します。この会のプログラムの講師の略歴を見て愕然としました。全員が70歳を超えているんですね。(笑)

もうすぐワールドカップが始まり、メデイアも盛り上げてくれている、この時期の五月祭でのこういう企画は本当にタイムリーで素晴らしいですが、講師がいささか年を取りすぎているんじゃないか、私自身のことも含めて率直な感想です。

私はFIFAではワールドカップ組織委員とオリンピックトーナメント組織委員という職についています。今度のワールドカップも日本とは無関係にFIFA役員として会場に詰め、6月2日から7月11日まで約40日間FIFAのお金で現地に滞在することになります。一方IOCですが、日本には委員が二人います。一人は昨年副会長に選ばれた猪谷千春君、彼が冬の代表で私が夏の代表という格好になっています。このようにFIFAとIOC両方でポジションについている関係で今回『ワールドカップとオリンピック』というお題を頂いたものと思います。 先ず簡単にポイントを数字でまとめておきますと、IOCの方が古く、設立されたのが1894年、サッカー(FIFA)は1904年、10年差があります。ただオリンピックの大会自身が開かれたのは1896年です。1894年はオリンピックの組織ができたということです。日本で一番誤解されていることですが、IOCが世界のスポーツをコントロールしている、という認識が日本では強い。この理由は、オリンピックは戦前から多く人の関心を引き付け、日本もそれなりに良い成績を上げてがんばってきた、また日本人の好きなアマチュアリズムの精神を重んじ標榜してきた組織であるため、根強い信奉者が多い。それに引きかえワールドカップの方は、ほうそういう大会があるのかということを日本では最近になってようやく知った人が現実には多いということです。 1953年、古いですね、この会の参加者の中には当時生まれてなかった人がたくさんいると思いますが、生まれて初めて選手としてヨーロッパに遠征しました。ユニバーシアードと呼ばれるのはその4年後のことで当時は国際学生スポーツ週間と呼ばれており、ドルトムントで開かれたその大会に代表選手として参加するためです。1954年ご存知の通りワールドカップ(スイス大会)で西ドイツが初優勝する前の年であり、現地では色々書かれていたはずですが、我々17人の選手3人の役員の皆さんはその話をほとんどしませんでした。興味がなかったと言えます。 私がワールドカップに具体的に興味を持ったのは1962年のチリ大会です。1961年コーチの勉強のためにデユイスブルグのスポーツシューレに行きました。シューレというと学校を思い浮かべますが、ドイツ協会が持っている多目的スポーツ施設です。そこにちゃんとしたフィルムライブラリーがあります。昼は練習や講義を受けますが、夜はワールドカップや当時の欧州選手権のフィルムが見ることができます。1954年58年の大会をフィルムで見て、すごいな、と思いました。そして1962年の大会後、リタラチュールという2位になったチェコの監督と当時ヨーロッパ最強と言われたハンガリーで練習方法を書いたIOC委員のアルパドチャナディ、この二人がチリ大会の印象をドイツの新聞に書いていた。それを見て、こういう違いがあるのか、と感心し、それを翻訳して日本の協会誌に紹介しましたが、これが私なりにワールドカップというものを理解した最初でした。二人が書いていたのははっきりしたポイントで、「ヨーロッパの選手は誰も、ボールを止める、見る、パスを出す、の三段階なのに対してブラジルやアルゼンチンの選手は止めた瞬間に体がプレーする方向に体が向いており1,2でパスを出す」ということでした。 そして1965年ドイツチームに招待されました。66年大会の予選の最終戦が戦われる時期で、ホテルも競技場もドイツチームの一員として行動しました。この時のスウエーデン戦は、20歳のベッケンバウアーが代表初出場した試合で、2対1でドイツが勝ちました。この間彼に会った時この話をしたら、ミスター岡野だけは俺のデビューを知っている、と言っていました。この試合の印象が非常に素晴らしかったので、翌年イングランドでの本大会はぜひ日本選手に見せたいと思い、サッカー協会に無理をお願いし、ウエンブレーでの準決勝、三位決定戦、決勝を日本代表全員が見られるようアレンジしました。と同時に西鉄旅行に、当時サッカー協会はお金がなく1年分あまりの航空チケットの支払いが滞っていたりしたので、たまには儲けてもらおう、ということで手配を頼みました。‘サッカーを見て世界を回ろう’というツアーの企画です。これがある程度の日本人がワールドカップを実際に現地に行って見た最初です。試合が終わって街に出るとある意味ショックなんですが、必ず‘Are you North Korean ? ’と聞かれます。(笑)この大会の北朝鮮の活躍はそれほど見事だったということで、イタリアを破り、あのオイセビオがいたポルトガルに最後は3対5で敗れはしたものの、始めは3対0でリードしていました。イタリア戦でゴールを上げたパクドクイク(朴斗翼)は北朝鮮では国民的英雄です。ウエンブリー競技場の周辺の人は我々が日本人だなどわからないから、北朝鮮か、と聞いてきたわけです。それはさておき、これがサッカーをずうっとやってきた人間がワールドカップを知った、自分の目で見た最初だった、ということを理解していただけば、オリンピックに比べワールドカップが国内で認知されるのにどれほど時間が掛かった、ということが分かると思います。 少しオリンピックの歴史を簡単に見てみますと、1894年IOCが設立された。創立者はご存知ピエール・ド・クーベルタンです。2年後の1896年に最初の大会が開かれましたが、これはパリ万博の添え物として行われています。オリンピックにサッカーが入ってきたのは、1908年の第4回、ロンドン大会からです。ちょっと飛びますが、1948年オリンピックが復活した後、52年から80年までサッカーは東欧圏が優勝を独占しました。他のチームは勝てませんでした。これらはステートアマチュアと呼ばれる選手によるものです。そして1980年ロードキラニンがIOC会長の頃にはオリンピック憲章からアマチュアと言う言葉はなくなり、アスリートという言葉で括られるようになっていました。その後1992年バルセロナ大会ではプロにも出てほしいということになり、23歳以下というサッカーにおいては別の形を作りました。しかし観客は少なく、千人集まれば良いほうという状況でした。もっとも、スペインが出場した決勝はカンプ・ノウという地元のサッカースタジアムを埋め尽くす98,000人の観衆が集まりましたが、予選リーグは人が集まりません。そこでIOCサマランチ会長から人集めのため有名選手を出してくれないかとの要請があり、3人の例外を認める、というオーバーエイジシステムが作られました。ところが、今回開幕前にミュンヘンで開かれるFIFA CONGRESSでは23歳より上は認めない、という提案が行われる予定で、賛同が得られれば、オリンピックのオーバーエイジ枠はなくなります。賛同が得られなければシステムは存続します。プロが認められたのは、サマランチが、オリンピックを各競技の最高チームからなる総合的な大会にしたい、と考えたためで、バルセロナにはドリームチームが来ましたが、選手が色々な問題があって、ドーピングなどですが、ベストメンバーが出てきません。 しかもこの間野球もオリンピックの公式競技から外れることになりました。私はIOCのプログラムコミッションのメンバーになっており、どの種目を正式競技とするかの原案を作る立場ですが、野球が見直しの俎上に上るということで大変困りました。本日亡くなられた山本英一郎さんの記事が新聞にありました、アマチュア野球の中心であり慶応のOBですが、彼と二人でどうしたらオリンピックに行けるか裏工作の話をしたことがあります。本郷の料理屋で話をしましたが、当時私はJOCの専務理事で事情がわかっており、統括組織が必要ということがIOC憲章に書かれているので、山本さんに野球にも統括組織がなければオリンピックには行けない、という話をしました。野球の場合統括組織がない、全部独立していて統括組織になっていません。プロはセ・パに連盟が分かれている、実業団野球連盟があり、全日本学生野球協会、高野連と、それぞれが法人組織になっている。そこで、何でもいいから全日本野球連盟を作りなさい、実業団と大学だけで組織し他はその傘の下に入れるという格好でよい、それで選手が派遣できる、という話をしたわけです。ロスではエギジビションに付けろということで始まり、ソウルもそうでしたが、92年バルセロナ大会から正式競技となり日本も参加しました。バルセロナの準決勝リーグ日本対アメリカの試合を時間があったので見に行ったら国際野球連盟会長のボブスミスに歓迎され、1st Pitchをやらされた。準決勝でも1st Pitchというのはいかにもアメリカ流で、山本さんがやればよかったのですが、練習させてくれと言ったら1st Pitchだから1st Pitchだ(笑)ということで練習なしに投げさせられ、野球関係の役員皆さんが見ている前で恥かしい思いをしたことがありました。現在の国際野球連盟の会長はノタリーという人で、名前の通りノタリクラリしているが(笑)イタリア人で色々な動きをする。野球も外されました。私が外したわけではありません(笑)投票の結果決められたことです。Fact findingの作業をやり、競技人口その他を調べた上で投票にかけられました。意外と知られていませんが、ソフトボールが野球のおかげでワリを食いました。日本のように野球連盟とソフトボール連盟が別になっている国は他にはありません。アメリカやヨーロッパでは、競技人口が少ないため、野球とソフトは同じ組織Baseball and Softball Federationという形になっている。ソフトボールは野球の女性版と理解されています。このため野球が外されるとソフトも外されるということになってしまいました。野球の場合ワールドベースボールクラシックやその他の大会があり活躍の場がありますが、ソフトは日の当たる大会はオリンピックだけなので選手諸君にとっては気の毒です。ソフトボールの復活運動をしようとしているところです。 オリンピックの競技の中の重点は、当然水泳や陸上競技がメインです。しかしサッカーは入場者が多く収入が大きいため、IOCは競技種目から外したくないので、23歳以下でも我慢してやっています。IOC事務局はFIFAが大嫌いです。IOC委員にもFIFA嫌いが大勢います。一つはアマチュアリズムの観点から、もう一つはFIFAがお金を稼ぐのでジェラシーを感じています。(笑)IOCにはFIFAは横暴だという人が多い。それが極まったのは先ほど触れたバルセロナオリンピックのサッカー決勝戦の時のことです。誰がロイヤルボックスの真ん中に座るかでFIFAとIOCの間でもめました。IOCは当然IOC理事が真ん中だと主張したが、FIFAはそれを受け入れず、後のFIFA会長で当時専務理事だったプラッターが剛腹にも、IOC理事が真ん中なら決勝はキャンセルだ、と言い始めたので、IOCは結局のまざるを得ずFIFAが真ん中に座ることになりました。私はどっちかわからない(笑)と言ったら、プラッターがお前はこっち(FIFA)に決まっている、ということでアヴェランジェの後ろが私の席になりました。 そういうことでIOCとFIFAとの関係は難しい問題です。一つだけ面白いことに共通点があります。どちらも創始者がフランス人ということです。こういうことにかけてフランス人はセンスが良いですね。1930年第1回のワールドカップは13チームで始まりました。先日ワールドベースボールクラシックについてワールドカップだって最初は13チームで始まったんだと書いている人がいましたが、当時は飛行機がなく、船で南米に行って戦うことは簡単にできなかった、そういう時代です。それが、その後参加国が増え、IOC加盟国が現在205カ国であるのに対し、サッカーの方は214、仮登録を含めると215カ国になっています。 オリンピックとワールドカップの組織を比較してみると、オリンピックの方が10年早い、ワールドカップは開始したのは後です。しかし単独競技の世界大会ということでは、戦前はサッカーだけでした。他の競技が世界大会を始めたのは全部戦後です。そのため日本では、‘サッカーのワールドカップ’と言いますが、他の国では、ワールドカップと言えばサッカーの大会を指し、ワールドカップの前に‘サッカーの’とは付けません。そういう言い方をしなければならないのは日本だけです。 持ち時間がなくなったので、足りない部分は後ほどご質問で受けるとしまして、一番の基本は、ワールドカップはプロで始まった、一方オリンピックはアマチュアで始まった、この接点としてサマランチがプロをどんどん入れようとした結果、色々問題があり23歳以下という大会になったということです。 今日ワールドカップ、サッカーは競技人口が多い。それに比べ野球はあまり普及しません、道具が必要だからです。日本にいるから気がつきませんが、アジアやアフリカなど貧しい地域でグローブを買おうとしても買うことができない、一方サッカーはボール一つあれば何人ででも楽しめる、シンプルでお金が掛からない良さがあるから世界中に広まり見る人も断然多くなります。 ワールドカップ予選を勝ち抜き本大会出場を決めた瞬間、参加の準備金として1億円が入る。予選リーグを戦うと1試合当り2億円ですから、合計7億円が入ります。優勝すると24億円が入ります。是非これだけ稼いできてほしいですね。(笑) ということで次に移ります。(拍手)

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(司会)

どうもありがとうございました。
それでは、次に『ルールの変遷』と題して浅見さんからお話しいただきます。よろしくお願いします。


『ルールの変遷』(講師)浅見俊雄氏

皆さんこんにちは、浅見でございます。長らく審判をやりホイッスルを持って走っていましたが、今は立っているだけでフーフー言いかねない状態です。OBとは字のごとくまさにOld Boysということでご勘弁のほどお願いします。 さて、サッカーの競技規則は最近20年ほどの間、毎年のように速いテンポで改正されてきました。何故かといいますと、岡野さんがふれたように、他のスポーツが普及しサッカーと同じように世界選手権を開き観客を集めテレビでも放送されるようになってきて、サッカーの人気が頭打ちになる心配がでてきたということがあります。特に危機感を感じさせたのは、1990年イタリア大会の内容が非常に悪かったことでした。点が入らない、各チームが予選突破のため守備的な戦術をとる、スキルフルな選手に対する悪質なファウルが多く戦力をそぐ、またそうしたプレーに対して審判が毅然とした態度で対処しないなど、ネガティヴな現象が多発しました。対策としてFIFAでは、タスクフォース2000というプロジェクトチームを作り、プラテイニが選手代表として参加し、デンマークのミケルソンという審判も参加して、どういう方向にもって行ったら魅力あるものにしていけるか、現場でやっている人たちの意見も取り入れて議論していったわけです。この結果、1990年以降急速に競技規則が変わってきています。 こうした競技規則の改正の流れをお手元に配られているように資料(末尾に添付)としてまとめてきました。これに沿って説明しますが、岡野さんには感心します、眼鏡をかけずにメモを見ていましたからね(笑)私はこれくらいの字になると読めないので、眼鏡をかけます。 この資料で「競技者を守りスキルフルなサッカーを保障する」、「得点の機会を増やす」など、いくつかの項目に分けてありますが、これらはFIFAがこうしたタイトルをつけたわけではなく、改正の流れにある考え方を私なりに項目としてまとめたものです。


○競技者を守りスキルフルなサッカーを保障する

   給水は、バルセロナが暑いところだったため、スポーツ科学の普及により、水を飲ませないと危険だ、ということで認められたものです。 日本では当時まだ、試合中も練習中も水を飲んではいかん、という考えが一般的で、今はもうさすがにそういう考え方はなくなっていると思いますが。 すね当てや出血したプレーヤーの参加停止はエイズ対策です。出血したままプレーし感染させてはいけないということです。選手の中にどの程度感染者がいるかはわかりませんが。 乱暴なタックルや肘打ちの退場については、ルールはあったが、厳正な適用を審判に強く要求したものです。なお、ここには規則の改正だけではなく、規則のきちんとした適用を指示したことについても含めて書いてあります。 少し補足しますと、競技規則の改正は、IFA(International Football Association)BoardというFIFAとは別の組織で決定されます。FIFAもこのメンバーに入っています。かつてはイギリスの4協会(イングランド、ウエールズ、スコットランド、北アイルランド)が議決権を1票ずつ持っていたのに対し、FIFAは1票しかなく、改正は四分の三の多数決でないと決定されないため、FIFAがいろいろな改正を提案しても決まらず保守的でしたが、近年ではFIFAも4票に増え4協会と対等になり、主導権をもって規則の改正を行える体制になり、改正のテンポも速まりました。イギリスが弱くなったということでもあります。


○得点の機会を増やす

オフサイドの規則と解釈の改正、と資料に書いてありますが、FA Boardは規則の改正のみでなくその解釈も決め、審判や副審に通達を出すなどいろいろな手段を講じて浸透を図ります。すべてが規則に盛り込まれているわけではありません。 1925年、自分より前にいなければならない相手側人数を、3人から2人に減らす改正を行いましたが、それ以来の改正となった90年の改正では、前に2人いなければならないというのを、ゴールラインから2人目と並んでもいてもオフサイドにはならない、ということに変えました。それを数学的には変ですが、‘ >2 → =2’というふうに資料に書いた次第です。 その後、オフサイド・ポジションにいるだけではオフサイドにはならないという規則は以前からあったのですが、積極的にプレーに関わった場合だけオフサイドをとるように、という通達が1994年に出されました。ただ去年は行き過ぎて、プレーするまでは積極的に関与したとはいえない、プレーするまでは旗も揚げず笛も吹かない、ということにしたため、パスが出されると副審はフォワードとともに走り、ボールにタッチした時点でやっと旗を揚げ笛を吹く、という非常に間が悪い形になりました。こういう馬鹿馬鹿しいことをFIFAは言ったわけですが、これは元の解釈に戻されました。今は、そのプレーヤーしかボールをプレーしえない状況、又はキーパーやデイフェンスが飛び出しそのプレーヤーとぶつかり合う場面が想定される状況であれば旗を揚げる、ということになり、落ち着いています。 ともかく守備側に有利な規則から攻撃側に有利な方向に変化しています。 得点の機会を奪ったときには退場させる。 それから勝ち点を改正し2から3にした、これはある意味大きな改正です。勝ち点2のときは、1勝1敗1引分け、あるいは3引分けでも予選を突破できたが、今は難しくなりました。が全く可能性がないということではなく、日本もF組で1勝2敗でも、ブラジルが3勝で独走した場合にはありえます。逆にアトランタでは2勝1敗だったが得失点差1点で決勝トーナメントに進めなかったということもあります。別に日本が負けることを期待しているのではなく、1勝2敗でもまだ可能性はあるというふうに理解してください。


○実質的なインプレー時間を長くする

ゲームは90分経ったら終わる、というのではなく、事故などで時間が使われた場合には主審はその時間を足すことになっています。バスケットやフットサルではアウト・オブ・プレーになったら時計を止めるようになっており、時計を管理する人がいますが、サッカーは主審に任されています。その中でアウト・オブ・プレーの時間は、何も起こらず見ている人にとっては面白くない時間ですから、こういう場合には時間を足していきなさい、と事例をあげて実際のプレーの時間を長くするようにしました。 ゴールキーパーがボールを持っている時間は、インプレーではありますが、何も起こらず面白くない、特に1−0というようなゲームでは、キーパーがボールを持って放さないとかキーパーにバックパスして時間稼ぎをするということが多かった。何とかしようということでバックパスをキーパーは手で扱えない、スローインによるパスも手で扱えない、違反したら間接フリーキック、という改正を行いました。 さらにキーパーによるボール保持時間にも制限を加え、はじめは5、6秒という制限から、4歩の歩数制限を廃止する代わりに保持時間を6秒に制限することに改正しました。しかしボールを足で扱うと制限がなく、フォワードもそのボールを取りに行かないですから、時間を無駄に使われてしまう事態は起こります。 マルチボールシステムの導入、これはボールメーカーの陰謀ではないか(笑)という人もいますが、ワールドカップのような大会はメーカーの提供ですから、もっと下のクラスの大会でも採用されるとそう言えるのかもしれませんが。 それからロスタイムをどんどん足していきなさい、ということになり、最近では前半で1分、後半は3、4分は当たり前、5分を越す場合もあります。


○コーチの要請に応える

皆さんご存知かわかりませんが、1953年まで選手の交代は認められませんでした。負傷した場合には審判が判断して交代を認めましたが、戦術的な交代はできませんでした。53年に交代制度が導入され負傷者であるなしに関わらず交代が認められるようになった結果、戦術的交代ができるようになったのです。現在国際試合では、3人まで交代が認められます。 ベンチからのコーチも以前はできませんでした。サッカーは一度グラウンドに出たら自分たちで判断してやるスポーツですから、ベンチから色々指示を出しても大して伝わらない、とも思うんですが、指示を出して存在感を示したい?というコーチの希望に応えました。その後、ベンチからでは声が届かない、ということで、テクニカルエリアが設けられベンチを離れて指示を出すことが認められました。 ハーフタイムも5分から15分に延長されました。


○フェアプレーの徹底

こうした一連の流れの中で1986年からフェアプレーを徹底しようという動きが始まりました。 一時競技場のスタンドが大変荒れた時期がありました。試合が荒れていると、それに呼応するようにスタンドも荒れる。スタンドの管理のため観客を煽るようなプレーはすべきではない、という観点からも選手にフェアプレーを要求しました。さらにはフェアプレーの精神はグラウンドの上のみならず社会の生活にも重要だという考え方でキャンペーンが展開されました。グラウンドに選手が入場する際には、フェアプレーの旗が先頭で入ってきます。当初‘Football is Fair Play−Fair Play is Football’というスローガンでしたが、現在は‘My Game is Fair Play’というスローガンに変わっています。      フェアプレー徹底の動きの中で、それ以前は故意に行ったハンドに対して警告を出すよう通達してましたが、シミュレーションや露骨なホールディングに対しても警告を出すよう事例を示して通達が出されました。以前から足による危険なタックルは警告扱いになっていたので、手なら良いだろうということでホールディングが増えてきたことに対するものです。今の現役諸君は、何故あんなことができるのか、と思うような相手を手で押さえる反則をしていますね。


○審判員の権限の拡大

審判の権限を拡大すると同時に、権限を適切に行使することも強く要求しています。 大きいのはアドバンテージルールでロールバックが1996年からできるようになったことです。対照的なのはラグビーで、ボールをキープする側に対する反則後相当長い時間プレーを続けさせ、ボールが相手に取られる、プレーが止まる、などの状態になった時点で、反則のあった場所へ戻す、ということになっています。サッカーでも反則の瞬間からプレーを2、3秒続けさせ、そのまま攻撃が続くようであればプレーを継続させ、そうでない場合には笛を吹いて反則の場所に戻す、というように若干様子を見ることができるようになりました。ゲームの中断をできるだけ防ごうということです。 線審が副審という呼び方に変わったのは、女性審判が増えたのに応じて、ラインズマンをラインズウーマン、ラインズパーソン、ラインジャッジ、などの呼び方に変えるのは変だということと、主審のジャッジをもっとアシストさせようということで、副審、アシスタントレフェリーという呼称に変えました。 後先になりますが、1991年から国際線審の登録を行い線審の専門化を進めました。普段主審しかしたことのない各国のトップクラスの審判がワールドカップに来て俄仕立てで線審をしてもきちんとできるはずがなく、オフサイドの判定はかなりいい加減でした。 また、今回のワールドカップから審判のチーム化が行われます。 1993年プロ審判員制度が各国に要求され、日本でもようやくプロの審判が出てくるようになりました。

さて、以上のような競技規則改正の結果、ゲームの内容がどう変わったかが、資料の次のペー ジにまとめてあります。これは、FIFAが大会後に出す公式記録から採ったものですが、最後 の*マークのついた三項目‘反則(回数・中断時間)、GK保持時間、GKへのバックパス’は、 伊藤君という私が日体大大学院で指導した方が、各大会の全試合ではありませんが、データを 取って分析したものです。 一試合当たりのゴール数はアメリカ大会で増えましたが、その後減っています。 引き分け試合、もちろん予選リーグのものですが、この数は増えましたが、一試合当たりの点 は増えています。0対0や1対1から、1対1は引続きありますが、2対2や日韓大会では3 対3という試合もありました。 警告数が、増えていますが、これは審判が毅然としてイエローカードを出すようになった結果 です。 退場数はあまり変わっていません。 インプレーの時間は、ロスタイムを加えていったにもかかわらず日韓大会では残念ながらイタリア大会よりも減っています。ルールを改正すると始めは選手はその趣旨に沿ってプレーするが、やっているうちに慣れて対応のし方を覚え、休み処を心得てきます。マルチボールでもスローインのところにすぐ行かない、投げない、ゆっくりコーナーに歩いていく、レフェリーから見るとありがたいことではあります、どんどんプレーをやられたらたまりませんから。(笑) GKの保持時間やGKへのバックパスも減った後また増えています。GKがボール扱いが上手になり、キープができるようになったためです。

この後、規則はどう変わっていくでしょうか。 さてワールドカップの審判員についてですが、日本からの参加は今までここに書いたような状況です。私も78年アルゼンチン大会の際選ばれそうになったことがあります。今のようにニュースで流れるわけではなく、あるスポーツ用品店の人が伝えてくれたのですが、アデイダスの情報によると浅見が候補になっているとのことでした。その頃アジアからは丸山さんが初めて選ばれた後、毎回一人が選ばれていました。残念ながら私は選ばれず、全く面識のない私より4歳年下のファルクブゾーというシリアの審判が選ばれました。彼はUEFAやFIFAの委員に審判の現場を見てもらっていたが、私のほうはAFCの委員長にしか見てもらってなかったことが大きかったのかもしれません。当時アジアでは一番と自負していたのですが。 それ以降私は、日本からワールドカップに審判を送り込むことを仕事としてやってきました。 その結果、高田君が2回、そして岡田君、上川君と続きました。アメリカ大会のときは小畑君が候補に上りましたが、残念ながら落ちました。でも日本の審判はアジアの中では常にトップクラスに位置しています。 今回の審判の選考はますます厳しくなり、上川君は大丈夫かなと心配してましたが、昨日NHKの「にんげんドキュメント」という番組で放送されたように、厳しい選考に耐えて選ばれました。NHKでは46人がリストされたと言っていましたが、最終的には44人が主審候補として今年3月ドイツに集められました。アジアからは6人が候補となりその中から選ばれたのは2人です。色々な大会やワールドカップ予選にアポイントされパーフォーマンスが評価され3月FIFAに届けられました。ドイツでは、体力、心理、英語、規則のテスト、医学検査が行われ、さらに過去の審判の評価を経て23人とバックアップの7人が選出されました。また今回から主審と同じ国又は大陸の副審とチームを組ませることとなり、主審からも副審候補者を選びAFCや各連盟からも選出し、全部で80人が集められ、同じようなテスト受けました。既に選ばれた主審23人も安泰ではなく、チームを組む副審が受からないと自分も落ちることになります。最終的に日本から主審上川氏、副審に廣島氏と韓国のキムデユン氏が選ばれました。アジアからは、日本を含む3チームが選ばれましたが、この中には昨年アジア(AFC)に入る申請を出し、今年認められたオーストラリアのチームも含まれます。因みに今後本大会の予選では、日本がオーストラリアと対戦することはなくなります。 選ばれた23チームの内訳は、UEFA10、CONMEBOL(南米)5、CNCACAF(北中米)3、CAF(アフリカ)2、AFC3となっています。大会中けがをしたり、1試合目の評価が低いと、次からは外されバックアップチームに取って代わられるという厳しい状況に置かれています。 上川君には、日本代表かお前が準決勝以上を目指せ、代表が行かなきゃお前が行け、と言ってあります。当人は決勝に行きたい、と大法螺を吹いてますが(笑)良いレフェリーですからがんばってくれることと思います。皆さんも日本代表の試合とともに、レフェリーの活躍、審判がどう捌くかについても興味を持って見て下さい。(拍手)

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(司会)

浅見さん、どうもありがとうございました。
それでは、最後に『ジャーナリストの立場から』と題して牛木さんにお話しをお願いします。


『ジャーナリストの立場から』(講師)牛木素吉郎氏

皆さんこんにちは、ご紹介いただきました牛木です。今日は立ち見がでるほど大勢の方に参加いただき大変うれしく思っています。 新聞記者をしているころ何度もシンポジウムを開催しましたが、お願いした講師の手前、参加者が大勢来てくれるかが常に心配の種でした。 今日も岡野さんが来るのに集まってくれるだろうか(笑)と心配していたんですが、学生諸君を調節弁に使ったりして(笑)一杯になったら立ってもらい、少なかったら席を埋めてもらう、ということで結局は立ちん坊で我慢してもらうほどの盛況となりました。

私は、新聞社に長年勤務している間ずっとサッカー、ワールドカップを日本に紹介することに力を注いできました。 とはいえ大学卒業後東京新聞に入社した当初は、そうではなかったんです。 自分の記事が紙面に載るとうれしいですから人気のあるプロ野球や、海外に行けそうなオリンピックの担当を希望していました。 サッカーをそれほど熱心に希望したわけではありませんでしたが、それが何故サッカーに入れ込むようになったか、きっかけがいくつかあります。

その一つは、1960年メルボルンオリンピックの前、58年に東京で第3回アジア大会が開催されるので、その準備が行われていたころのことですが、 当時JOCの会議は公開されており、私も駆け出しの記者として取材に行かされました。 そこでサッカーを競技種目にするかどうかということが議題になっていました。 当時は施設もない金もない、サッカーは大勢人が来て金が掛かる、オリンピックが手本ですから個人競技を中心とする大会にしたい陸上や水泳連盟の意向がある、 などのことから議論が行われたわけです。 JOCの中心にいる人たちはサッカーを外すつもりはもともとなかったようですが。その会議の休憩時間の雑談をしていたときのことですが、 会社の名前は言いませんがさる有力新聞全国紙のベテラン記者で早稲田ボート部のOBだった人が「サッカーなんてやらないでいいよな、世界中どこでもやってないもんな?」(笑)と言ったのです。日本におけるサッカーの認識はこの程度かと思いました。私ですら世界で一番盛んなスポーツはサッカーだということくらいは知っていましたから、これは新聞記者としてなんとかサッカーやワールドカップのことをもっと普及させないといけない、と思ったわけです。

もう一つのきっかけは、先ほど岡野さんがサッカー協会をけしかけ(笑)1966年イングランド大会視察団と言う目的でツアーを行った話をされましたが、これに中国新聞の河面道三さんという方が参加していました。新聞社は行かせてはくれませんから新聞記者として行ったわけではありません。この方は東大OBの先輩で朝日新聞の中条一雄さんが旧制高校最後のインターハイに優勝した時のチームメイトで、中条さんが出したパスを河面さんがシュートしたという(笑)真偽のほどはわかりませんが、この方が中国新聞に大会視察のリポートを書きました。この記事を読んで自分も是非行ってみたいという思いが強くなりました。そして1970年のメキシコ大会、何とかして現地へ飛びたいと思い、当時は既に読売新聞に移っており、行かせてくれと言いたいが、まだ駆け出しで下から2番目でしたから、朝日新聞や共同通信の人たちと‘共謀’し記者団の一員として派遣するよう会社に働きかけることにしました。朝日新聞は、東大OBの先輩で大谷四郎さんが、大阪で既に相当えらくなっており、自分が行く、ということですぐに決定し、朝日が行くなら全国配信している共同も行かないわけにはいかない、と2社は早々と決めましたが、私の方はなかなか会社が認めてくれません。ついに自費で行くことを決意して会社に休暇申請をしました。当時6月の梅雨時は今のようなドーム球場でなくプロ野球が中止になることが多く忙しくなかったこともあり、会社は、休暇をとるのは労働者の権利だから認めないわけにいかない(笑)と言って認めてくれました。妙なことですが、休暇を取り自費で行くにもかかわらず特派員という肩書きだけは渡されました。(笑)こうして行って記事の原稿をいくつか送りましたが、なかなか掲載はしてくれませんでした。先日、中条さん、毎日新聞の荒井さんという方と、私の3人で‘敬老’座談会をしましたが、荒井さんは、74年ドイツ大会から取材しているそうですが、彼もやはり自費で行っていたそうです。今度のドイツ大会は、日本から山のように記者が行くそうです。100人以上の記者登録がなされているとのことですが、世の中ずいぶん変わりましたね。でも可哀そうなことに、朝日や読売のサッカーを良く理解し熱心な記者ほど、現地には派遣してもらえない。優秀な記者は現地から送られる記事原稿を日本でまとめる役をしなければならないからだそうです。私の場合牛木はいなくてもしょうがない新聞はできる(笑)ということだったのだと思います。

三つ目のきっかけですが、東大サッカー部やサッカー協会(設立当初は大日本蹴球協会)の設立に貢献し、また全日本選手権の創始者でもありますが、先ごろサッカー殿堂入りされた大先輩の新田純興さん、彼が当時会社を退職し岸記念体育館のサッカー協会に良く顔を見せていました。当時サッカー協会は岸記念体育会館にあり雑然としていたんですが、彼とともに協会の倉庫がどうなっているだろうかと見に行ったとき、ジュールリメが書いた‘ワールドカップメモワール’という本がほっぽらかしにされているのを見つけました。フランスから送られたのがそのまま倉庫に置かれており、袋綴じにされたままになっていました。それを新田さんが協会の部屋へ持ち帰り自分で封を切り、昔の人は立派だと思いましたが、フランス語で書かれた本をぺらぺら読んだ、そして、これは重要な本だから君が翻訳して出版すべきだ(笑)とその本を渡されました。出版すべきだと言われても出版を引き受けてくれるところもないし、フランス語の翻訳も簡単じゃないですから大変困りましたが、読売新聞外報部にフランス特派員の経験者がいたので、この二人に頼むことにしてコピーを渡し翻訳させ、私が修正して、ベースボールマガジン社に持ち込んで出版を頼みました。初代社長だったら、そなあほな、と断られたかもしれませんが、当時二代目社長だった池田郁雄さんが引き受けてくれました。それがここにある‘ワールドカップの回想’という本です。今でも売っています。池田さんが気前良く印刷しすぎたのか売れ残り(笑)在庫の山となりました。日韓大会の時にだいぶ売れましたが、まだ在庫がだいぶ残っているそうです。(笑) そういうことで、当時のワールドカップへの関心がその程度だった、ということをお話したかった次第です。 時間がなくなっていますが、この教室は今日はこの会以外使わないそうですから(笑)もう少し話をさせてもらいます。

この本にジュールリメが1930年にワールドカップを始めるときのことが書かれています。何故第1回を遠いウルグアイでやろうということになったか、これはオリンピックと関係しています。ウルグアイは1924年のオリンピックパリ大会に南米から参加し、あれよあれよと言う間に優勝してしまいました。ヨーロッパの人たちは、南米もサッカーをやっているのか、強いじゃないか、ということを初めて知った。当時のヨーロッパの人たちは世界といえばヨーロッパしかなく、その他は付属(笑)というくらいにしか考えていませんでしたから。次の28年アムステルダム大会でもウルグアイは優勝し、アルゼンチンが2位になりました。南米はこのように強いのだから世界一を決める大会は南米を参加させなければ意味がないとジュールリメは考えて行動を起こしました。

もう一つは、先ほどの岡野さんの話とダブりますが、当時ヨーロッパのサッカークラブにはブロークンタイムペイメントといって土・日だけサッカーの試合をして手当をもらう、他に仕事を持っているがそうやって金をもらうプレーヤーが既に大勢いて、アマチュアリズムのオリンピックから彼らは締め出されていました。したがって世界一を決める大会には、二つのこと、南米の参加とプロの参加、これを実現しなければ意味がない、ということで、建国百年を向かえる南米のウルグアイで開催することにしたのです。ところが今と異なり飛行機のない時代ですからヨーロッパから南米へ大西洋を渡って行くのは大変遠く時間が掛かり、簡単なことではありませんから、ジュールリメが欧州各国に参加するよう説いて回っても、建前には賛成するがなかなか実際に行くとは言わない。そのとき協力してくれたのが新聞である、とジュールリメがここに書いています。13カ国と多くはありませんでしたが、ある程度の参加国を集めることができたのは新聞の協力のおかげだ、ということです。二人の記者のことが書かれていますが、このうちピエールキュルテという記者がジュールナールという新聞に書いたのは「ワールドカップを機会にヨーロッパが南米に行くのは単にスポーツのためにだけ行くのではない、国際親善にも役立ち、政治的関係も改善する、もっと広い視野に立って参加することを考えるべきだ」ということでした。この人は自分自身も船で南米まで一緒に行ったそうです。 グローバルな視点に立ち、クーベルタンが提唱したアマチュアリズムにも対抗してワールドカップという新しい試みを始めたわけですが、このように新しいことを始める場合には、インテリ層の理解とサポートを得ることが是非とも必要で、そのためには新聞やジャーナリストが大きな役割を果たすということをお伝えしたかった。我田引水ですが(笑)このことを結論として話を終わります。(拍手)

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(司会)

ありとうございました。
それではここで5分ほど休憩にしますが、ただいまお話いただいた御三方には、後半の討論にも参加していただきます


パネルディスカッション『ドイツ大会、あと2週間』

司会 それでは、第2部『ドイツ大会、あと2週間』というテーマでパネル討論をしていただきます。
第1部の講師御三方に加え、広瀬一郎氏、坂本優氏、碇知也氏の3名にパネリストとして討論に加わっていただきます。
広瀬氏は、1978年に東大を卒業、現在は、江戸川大学教授でスポーツマーケッテイングを教えておられます。
坂本優氏は、2005年度の東大サッカー部副将を務め現在大学院におります。
碇氏は、東大サッカー部現役の3年生です。
なお、パネル討論の司会は、ベテランの牛木さんにお願いすることとします。
牛木さんよろしくお願いします。
牛木 今日のデイスカッションは始めは講師の3人だけでやろうかという話もあったのですが、こういう機会ですから学生にも加わってもらうべきだし、それだったら老・壮・青と(笑)そろえてやったほうが良いということになりました。広瀬さんは壮の世代ということでお願いします。討論は時間がないので僕が質問する形で進めたいと思います。皆さんの質問を受ける時間も限られているので学生が配るペーパーに質問を書いてください。討論の途中でそれを見て取り上げていきます。 では、最初に先ほどの講演について若い人がどう思ったか、感想を聞いてみたいと思います。先ず学生の碇さんからお願いします。
三年生の碇です。偉大な先輩方のお話しを聞いて、今はサッカーを取り巻く環境が良いですが、昔はワールドカップを見るにも大変苦労されたんだなと思い、自分たちは幸せだと感じました。そうした大変な環境の中でもサッカーに対する情熱を持ち続けたサッカーへの愛、ということを強く感じました。昔の苦労のお話しを聞く機会はなかなかないので、こうした機会が得られて本当に良かったと思います。
牛木 ヨイショするために呼んだのではありませんから(笑)鋭い批判も歓迎します。では坂本さんどうぞ。
坂本 大学院修士二年の坂本と申します。ワールドカップのお話をされ見ること自体に苦労されたということが、自分に引き寄せて考えるのが難しく、碇同様強く印象に残りました。今はサッカーが普及して見ることが簡単になり、アマチュアの評論家も多い。昔はプロとアマとギャップがあったと思いますが、今ではそれがなくなり東大サッカー部はサークルより弱い(笑)というようなことも言われ、その意味では逆にギャップがあった昔のほうが良かったのではないかなどとも思ったりしました。(笑)
牛木 サッカーの面白いところは、トップのプロからアマチュアのすそ野まで一体となってつながっているということです。野球やバスケットではプロは別で、国際バスケット連盟や野球連盟とは別になっていますが、サッカーはFIFAでルールが変わると、プロと同じようにアマチュアも変わります。 では、次に壮年の広瀬さん、ワールドカップはもはやマーケッテイングなしではやっていけない、ということになっていますが、電通にもおられたこともある専門の立場からこの辺りのことを少し長めに話してください。
広瀬 広瀬でございます。私も話すときはつい立ってしまいます。(笑)まさかこうした肩書きでこの校舎に戻るとは思ってもみませんでした。隔世の感があります。 簡単に申し上げますと、今のワールドカップのビジネスの仕組みがいつ頃できたかというと、1978年アルゼンチン大会にさかのぼります。基本的には74年がスターテイングポイントになるのですが、先ほどの岡野さんのお話にもあったように、オリンピックからアマチュア憲章がなくなりスポーツがビジネスに傾斜していくスターテイングポイントがこのころです。またファン・アヴェランジェがヨーロッパ以外から初めてFIFAの会長に選ばれたのも74年です。社会学的に言うと、たぶんアングロサクソンカルチャがグローバル化する中で、脱アングロサクソン、脱アマチュアの方向への流れが始まる、というふうに捉えられると思います。このアヴェランジェの初めての大会が78年アルゼンチン大会でした。この大会のスタジアムの広告看板を74年大会と比較すると良くわかりますが、74年は西ドイツの企業だけだったのが、78年は地元アルゼンチンのみならずグローバル化しています。ワールドカップがワールドワイドベースで売れるようになったわけですが、これはテレビの海外放送が盛んになったからです。78年は多くのヨーロッパの企業が広告を出しています。 そして78年、82年大会ともにビジネスは同じ仕組みで行われましたから、82年バルセロナの大会も同じように成功するはずだったのですが、大会を締めてみたとき収入が期待とおりに上がっていないという結果になりました。実際のビジネスをしていたところがワールドワイドなビジネスをするには力量不足だったのが大きな原因です。アヴェランジェは、ピーターユベロス、84年ロスアンゼルスオリンピックを成功に導いた人ですが、彼と仲が良かったため彼から電通を紹介されました。電通は、アデイダス二代目のホルストダスラーと話をし、ワールドカップはビジネスチャンスとしてはもっと大きい、ワールドワイドにシステマテイックに売れるはずだということを言いました。つまり82年から86年に変わる間に84年ロスアンゼルスオリンピックが一つかんでいます。ピーターユベロスが収益源とした4年をパッケージにしてスポンサーシップの形で商品化するというやり方が取り入れられ、86年からげんざいまで踏襲されています。 ただ現在のやり方は外から見ると変わりませんが、実は94年からかなり変わっています。94年大会はアメリカで行われましたが、アメリカはサッカーがナンバーワンの国ではありませんからワールドカップが特別扱いされず、IRS(米国財務省の徴税機関)がFIFAに対して課税するという話になりました。90年のイタリア大会まではサッカー大国で開かれたのでFIFAは大会でどんなに収益を上げようと興行税や事業税など払ったことがありませんから、びっくりしました。その驚き方に今度はIRSがびっくりして(笑)FIFAとはどんな組織かということをスイスに調べてみた。するとFIFAは公益法人の登記がされていない(笑)ことがわかりました。米国とスイスの間には租税条約がありますから、登記していれば免税措置を取ることができます。 こうして95年公益法人として登記されましたが、この結果FIFAにおける法対策の整備が進み、ビジネスのやり方が変わりました。ただ当時すでに98年大会の仕組みはでき上がっており従来のやり方が踏襲されたため、この変化の影響をもろに受けたのは2002年大会でした。私もこの大会の招致活動に参加してましたので、どこが変わったかと言うと、List of Requirementsというのが送られてきたわけです。要求項目が完全に契約書の形態になりました。それまではサッカー好きが世界一を決めようと善意でノホホンとやってきたのが、この大会から契約書の形式を取り、マーケッテイングやマネジメントが重視され、ビジネスの体裁が整えられました。 日韓共同開催が決定した1ヵ月後、96年5月28日だったと思いますが、マーケテイングを行う中でテレビ放送権の国際入札がワールドカップでは初めて行われました。驚くことに、入札価格はスイスフランベースではそれまでの13倍に跳ね上がりました。日本円になおせばかなり薄められはしますが。オリンピックで84年以来収益の中のテレビマネーの割合が突出したように、FIFA収入の中でもテレビマネーが突出し、問題が生じるというかサッカーバブルと呼ぶべき状況が生じています。 私も何の因果か80年に電通に入り、78年からビジネスが変わる過渡期に放り込まれましたが、まさかワールドカップを自分のビジネスにするとは思ってもみませんでした。 話は変わりますが、我々の代まで岡野さんは検見川まで練習を見に来てくれまして、大学1年のとき拓大との練習試合で私が3人抜いてシュートをしたのを見て、足の速いのが入ったじゃないかと褒められました。その後岡野さんは来られてないから、褒められたのは私が最後じゃないかと思います。ビジネスのことはどうでもよく(笑)こういうことの方を良く覚えています。
牛木 ありがとうございました。今のお話はかなり電通サイドに偏っているんじゃないかという気がしましたが。 私も広告業界の人と付き合いがあって、ウエストナーリという会社のパトリックナーリという男ですが、名古屋とソウルが指名争いをしていたころのこと、バーデンバーデンのIOC総会の前に彼が日本に来たので話をした際、名古屋はいつ取り上げられるんだ、と聞くと、馬鹿言うな、もうソウルに決まっている(笑)というわけです。日本では大半がまだ名古屋だと思っている時期に広告業界の人たちはそんなことで、皆ウラでにぎってやってるんですから。(笑) テレビ中継によりワールドカップやオリンピックに関わるビジネスがずいぶん変わったというお話でしたが、新聞にいくら記事を書いてもそれがイギリスやブラジルの人たちに読まれることはない、だがテレビだとNHKが放送したものを世界中で見ることができる。衛星中継でワールドカップのビジネスも変わっている、オリンピックも変わりました。このあたりのことについては、岡野さんからさらに付け加えていただきたいと思います。スポーツとマーケッテイングについてどう思われるか(笑)、お願いします。
岡野 牛木さんが言われたウエストナーリ、パトリックナーリ、もうソウルで決まっていたというのは全くその通りだったのです。ところがバーデンバーデンのIOC総会の発表が衛星中継で送られることになっており、名古屋のスタジオにはクス玉が用意され、まだ勝てると思っていたんですね。こちらは前の晩25票以上の差でソウルが勝つだろうということはわかっていました。 あの頃はアデイダスの二代目会長のホルストダスラーがすべてを握っていました。彼とは長い付き合いで、来日すると一度は必ず我が家に来て一杯飲んでいました。最初来たとき、アデイダスジャパンというのを作った、製品には自信があるんだが日本ではなぜ売れないんだ、ということを聞かれました。それに対して製品の良いのは知っている、が日本には独特の流通機構があるから、それを十分知っており、アデイダスの製品を愛している人をマネージャーに据えないと売れない、とアドバイスしたことを覚えています。その彼が、日本に来ても連絡が来ない、調べてみるとソウルにいっているわけです。その頃パリの新聞にはオリンピックの開催地を決める男、という見出しで彼の記事が掲載されていました。そのホルストがソウルに行って日本に来ても連絡がない、それまでは少なくとも朝飯は一緒にしてたんですが。 でも彼のおかげで随分得もしました。神戸のユニバーシアードでのサッカーの復活は彼の力によるものです。先ほどお話した53年ドルトムントの大会、あの時にはあったサッカーが当時のユニバーシアードではなくなっていました。日本のスポーツにおいて大学は大事な役割を果たしていますから、神戸では是非復活させたいと思っていました。そこでホルストダスラーとホテルで朝食をとっていたとき、彼から何か頼みたいことはないか、という話になったので、次の神戸大会からサッカーを復活させたい協力してほしい、と依頼すると、その場で手帳を出し、今だったら起きているからとニューヨークに滞在中のユニバーシアード会長のイタリア人プリモネビオロに電話を入れてくれ、ここに俊が来ている、頼みたいことがあるそうだからいま替わるので聞いてやってほしい、と私に、神戸ではサッカーを是非復活させたい大学スポーツというのは日本では大事なんだ、と彼に頼む機会を作ってくれました。大変世話になったので、その後プリモが奥さんを連れて来日した際には感激して食事に招待し奥さんの肩をもんで上げたんですが、長すぎるんじゃないか、と言われました(笑)。 それくらい、ホルストダスラーは力があったのです。ホルストがソウルに付いたらだめだ、と思いました。アデイダスは強かった。電通も組んで色々やったと思います。アデイダスもその後変わり、ハイガーというドイツ人や、フランス人のパデイが会長を務め、またフランス人投資家ドレフュスという人が株を持ったりしています。ベッケンバウアーは死ぬまでアデイダスから給料をもらえるそうです。それをアレンジしたのはクラマーさんです。(笑)彼もアドバイザーを長いことやってました。そんな関係でアデイダスは新製品を作ると必ず私のところへ送ってきて意見を聞いたりしています。サッカーの世界ではアデイダスは力があります。 テレビのことについて一つだけ申し上げると、‘ダイヤモンドサッカー’が始まったのが1968年4月、メキシコオリンピックの年でした。今では信じられず笑ってしまいますが、今週は前半だけ(笑)後半は来週のお楽しみ(笑)という番組で、視聴率は平均0.8%、良くて2.3%でした。三菱グループがスポンサーとしてバックアップしたので東京ではダイヤモンドサッカーというタイトル、地方では‘ワールドサッカー’という名で放送されました。東大OBの先輩で三菱化成の社長だった篠島秀雄さんがロンドン出張中に‘マッチ・オブ・ザ・デイ’という番組を見て、これを日本でも放送したらどうかと思ったのが発端でした。大先輩の彼から電話がかかってきて、スポンサーの方は俺が何とかするから、解説の方はお前がやれ、という話で、大先輩ですから、電話に向かって、わかりました、と言いながらついお辞儀をしてしまいました。(笑)20年間やりました。その中で74年西ドイツ大会の決勝、西ドイツ対オランダの試合をミュンヘンから放送することになる、日本では初めてのワールドカップ衛生生中継となりました。 そういう時代ですから本もない、サッカーの情報というのは捜すくらいしかなかったのです。日本ではメデイアの興味が低かった。メデイアとサッカーとの関係、あるいはスポンサーとの関係が密になったのは、もちろんJリーグができてからです。スポンサーシップが初めて付いたのはJリーグ開始前年のナビスコカップでしたが、なんと言ってもプロのJリーグが始まったことが大きな力になりました。ユニフォームにつけるロゴなどスポンサーがつく、メデイアに取り上げられることも飛躍的に増えました。 最後に東大の人の質問に答えておきます。先ほど1966年イングランド大会の準決勝・決勝を代表選手に見せた話をしましたが、田舎の小さなホテルに宿泊したのでバスで行き帰りするのですが、帰りのバスの中で彼らに印象を聞いたところ反応は二つに分かれました。一つは、次元が違います、こんなサッカーをしたら体が壊れてしまう、というもの、もう一つは、同じサッカーではないですか、というものでした。よく考えてみると両方当たっているなと思いました。良い環境でやれば、良い体ができ、試合数が増えればそれへの対応ができるようになる。ただアマチュアでやっていると次元が違ってしまうということですね。しかし浅見さん言ったようにサッカーはプロもアマも同じルールでやります。牛木さんも言うとおりプロからアマまで同じルールです。次元は違うが東大もワールドカップと同じサッカーをやっている(笑)ということです。
牛木 ありがとうございました。本当に富士山のてっぺんから静岡、山梨の麓まで同じ富士山だというのがサッカーの原点だと、私は日ごろから思っています。ところで審判がトップレベルに行かないと良くならない、また審判の世界にもコマーシャリズムが入ってきているのではないかと思いますが、今の話に関連してどこでもかまいませんから、浅見さんからお話願います。
浅見 どの辺が良いでしょうか。(笑) 規則が次々に変更されるが、その流れがなかなか伝わらないという話ですが、ずいぶん変わったと思います。戦後すぐ新しい英語版の規則が日本に入ってきたが、見るとずいぶん変わっている、1934年大幅な改正があり、現在の17条の形にまとめられましたが、そのあたりのことが46年、47年になるまで日本には伝わってなかったのです。例えば当時認定ゴールと言う規則が日本にはまだあって、フィールドプレーヤーがシュートを手で止めた場合、止めてなければゴールだった、と判定されるとゴールと見なされるというルールです。1953年竹腰重丸さんが世界の審判講習会に参加した際、このルールはなくなったのか、と質問したら、そんなルールはずっと前にちょっとテストされたことがあったが、ルールには入ったことはない、と参加者から笑われたと言う話があります。このルールが日本人の性格に合ったのか、武士道的なものが好まれたということなのか(笑)。とにかく世界の流れが入ってきませんでした。ベルリンオリンピックの時には対角線式審判法が普通になっていることを日本の選手も見て、帰ってきてそれを広めるということがありました。当時は選手と審判が未分化でした。岡野さんも国際審判員候補として1年間一緒にやったことがあります。彼はクラマーコーチが来てそちらの方へ進み、私は審判を続けることになった。ちょっと本筋から外れましたが、日本に情報が伝わるのがすごく遅かったが、今では、今年のルールブックはまだ発行されていませんが、FIFAでは出ており、サッカー協会ではその版をPFDで取ることができ、これを見ると協会で新しいルールブックが作れるようになっている。ここにFIFAのルールブックと日本協会のものを持ってきてますが、両方とも体裁は同じでページも同じに作られています。また7月1日からの改正点はホームページでも見られるようになっています。末端の人たちも見られます。ルール改正が流れてこない、ということではなく、皆さんが見ていない、ということもあるのではないでしょうか。情報は早く流れるようにはなっていると思います。
牛木 インターネットが普及し、情報が流される。流す側は、流していると言い訳することが多いのですが(笑)、読んでもらえなければ伝わらない。競技規則は読みやすいものを作るのは難しいですが。 ところで今浅見さんお持ちのルールブックですが、FIFA版と協会版で厚さが違いますが、日本版の方が長いのでしょうか。
浅見 FIFA版にも解説がついており、その部分までは同じですが、日本版にはさらに協会として解説をしておくほうが良いと思うものを付け加えてあります。
牛木 それは本屋で買えるのでしょうか。(笑)
浅見 本屋では買えません。審判員には全部送られています。登録したチームにも送られているはずです。
牛木 昔から確かにチームには送られてきてましたが、市販はされていません。旺文社がスポーツルール集を出そうとしても、そのまま載せる事をサッカー協会は認めない、当時おかしいなと思ってましたが、今でもそうだとのことです。それはどういうわけでしょうか。(笑)
浅見 なぜでしょうね。思うにサッカーは先ほどから言われているように全部同じ傘の下にある、日本協会に登録した人の権利として競技規則をもらえる、これでその傘の下でサッカーをやる、という仕組みになっていると理解しています。
会場 選手の数だけ送ってこないですよね。
浅見 それはそうです。でも皆さん読んでますか。(笑) 東大サッカー部でちゃんと読んでいる人はどれくらいいますか。 それと東大サッカー部にはもう一つ言いたいことがあります、審判をやる人が出てきてほしい、ということです。そこに国際審判員の高田さんが来ていますが、彼以来東大から国際審判員が出ていません。以前は東大サッカー部出身者が国際審判員の中核を担ってきたんです。先ほど言った竹腰さん、彼は監督、コーチ、審判を掛け持ちでやっていましたが、それから、有馬さん、横山さん、早川さん、浅見、高田さんと途切れることがなかった。是非挑戦してほしいと思います。審判ならワールドカップへ行けます。(笑)
牛木 規則は市販すべきである、と50年間言い続けてきたが誰も耳を傾けてくれない(笑)。 時間が押してきてますが、先ほどからの話で二つの問題が出ました。一つは商業主義の問題です。そこに立っている部員の人たちは縁がないと思いますが、そういう人たちから見てワールドカップが商業主義に傾斜している、テレビによってずいぶん変わってきた、という点についてどう思っているか、坂本さん聞かせてください。
坂本 自分は現役の時は商業主義の近くにはいないので、ああやってるな、という程度の感じでしたが、現役を卒業して社会で今後どうやっていくか身の処し方を考えた時に、何らかの形でスポーツには関わっていたいと思う気持ちもあり、どう関わるかという点から見たら一つのチャンスと捉えています。現役の時プレーヤーとしてはどうも思いませんでしたが、引退してからの一つの可能性としては感じています。
牛木 強いチームにはメーカーからユニフォームや靴の提供があるようです。東大は難しいと思いますが(笑)この点について現役部員はどう見てますか。
提供してもらえたら一番助かるのですが(笑)。学生でお金もありませんから。早稲田はアデイダスと契約しているということも聞いており、大学のトップレベルのチームには商業化の流れが来ているという感じがします。東大はトップレベルではないからそういう恩恵はないですが、商業化がうまくまわって底辺というかアマチュアにもお金が還元されてくるような仕組みができればよいと思います。
牛木 模範的な回答でした。(笑) 残り時間が3分ほどになりましたが、質問を受けてないので、10分くらいは延ばしてよろしいでしょうか。質問の前に一つ、昔ウイルクーガーというオランダ人のコーチをつれてきて紹介したことがありましたが、彼が筑波大で講義の後質問を受けたが誰も質問するものがいない、これは1980年代の話ですが、彼がその時、日本は経済力があり子供たちも礼儀正しい、そこら辺に物を置いておいてもなくならない、それなのになぜサッカーが弱いのか今日初めてわかった、聞いても質問がない、と言ったんです。もっと他の話もありましたが。(笑)それでは質問をどうぞ。
参加者1 47年卒業の戸井と申します。航空会社に勤めている関係で74年西ドイツ大会以来、スペイン、イタリア、アメリカ、フランス、韓国で見てきました。その中で私が好きなチームは74年大会のヨハンクライフが率いるオランダチームですが、過去のワールドカップで一番素晴らしいと思ったチームはどこでしょうか。
牛木 これまでのワールドカップで一番素晴らしいチームはどこかという質問です。ヨハンクライフがいた74年トータルフットボールのオランダが良かったということですが、実はあの大会から今年は32年目になります。岡野さんは両方見てますのでどうでしょうか。好きなチーム、あるいは感想など。
岡野 好きなチーム、選手は人によって違います。優勝したチームはだいたい良いチームです。確かにヨハンクライフのオランダチームは良い選手が一杯いました。ただあのシステムは他のチームではできません。作戦やシステムは選手の能力で決まります。理想はこうだと決めて近づくために不断の努力で練習を積み重ね、そこまでいかなくてもそれでは試合ではこうやろう、ということでやるわけです。その点確かにあの大会のオランダは素晴らしかった、特に準決勝でブラジルを2対0で破ったオランダはすごかったです。ドルトムントでの雨の中の試合でしたが、ニースケンスが左から突破してゴール前に折り返す、クライフが50メートルほどダッシュして右足インサイドのボレーでブラジルのゴールへ叩き込む。今‘空飛ぶオランダ人’という解説が横からありましたが、まさに素晴らしかった。でもそれが全てではないですね。ワールドカップではありませんがヨーロッパ選手権を取った時のドイツ、あのチームは素晴らしかったと思います。ボルシアメンヘングランドバハとバイエルンミュンヘン完全にこの2チームによる混合チームでした。ギュンターネッツアー、欧州を征服したような選手でしたが、彼が率いたこのドイツチームは強烈に強かった。74年彼は残念ながら代表はアウトになり代わりにオベラーツが入いり、ドイツとオランダが決勝をやりました。ベッケンバウアーは優雅にやりましたが、チームとしてきれいなサッカーだったとは言えません。印象はオランダが良かったと思います。さらにワールドカップを振り返ってみると、自分の目で見たのではありませんが、58年スウエーデン大会のブラジルが印象に残ります。フォワードに右からガリンシャ、ディディ、ババ、それからペレ、ザガロ。ガリンシャは小児マヒにかかったことがあり足の長さが違っていたんですが、フェイントをかけるとバックスがいなくなってしまう(笑)それからビューッと走って折り返す。それをセンターフォワードにいるババがダイレクトで決める。ペレはボールをちょんと浮かして相手の頭を越し裏へ回ってボレーでシュートをスコーンと決める。決勝はスウェーデンと戦いましたが、ペレが17歳でデビューした大会ですね。バックスにはマオ、キーパーにはジルマールがいて、このブラジルチームは本当に素晴らしかったと思います。でもこれは自分の目で見たのではなく映画のフィルムだったんです。この辺がちょっと違います。
牛木 ペレがデビューした時は映画のフィルムだったんですね。その後はビデオが普及してきてビデオはどこでも見られますが、映画のフィルムは、機会がないとなかなか見ることができません。 私が素晴らしいと思ったのは1970年のブラジルです。メキシコの大会ですが、決勝はアステカスタデイアムという高地で酸素が薄く動けない、イングランドと戦ったグアダラハラは低いけど大変暑く走れない、こうしたことのため動きが少なくなったので、ブラジルの個人技がよけい光ったのかもしれません。皆クライフの話をしオランダがよいというので、74年のことはあえて言わないことにしています。(笑)
参加者2 私は82年大会のブラジルが好きでした。でもテレビで岡野さんが、イタリアに勝ってほしいですね、と繰り返し言われたのでショックでした。私もダイヤモンドサッカーを見ていましたから。ところで、サッカーもいろいろ方向性があると思います。学校教育の中でのサッカー、頂点はどこなのか、大学選手権をとることか。西が丘で見ていてショックを受けたんですがファウルの基準がJリーグや代表の試合とずいぶん違う、浅見さんにお聞きしたいのですが、学校教育の一環ということでの配慮なのでしょうか、早めにファウルをとるところが見受けられます。同じ世代でもユースサッカー、クラブチームのサッカーはまた判断基準、審判の基準が違うような感じもします。人格形成の場としてのサッカーなので教育的配慮をするということなのか。一方で勝つために潰しあいをするプロのクラブチームの試合がある。見る方もバランスをとって見る感覚が必要です。学生サッカーからJリーグにそのままいけるのか、入っても文化や意識の差に愕然とする。そこで、審判の判断のレベルについて学校教育との関係でどうなのかということをお聞きしたいと思います。
牛木 ただいまの質問に関連するものがペーパーで頂いた質問の中にありますのでまとめてやりましょう。一つは、高校からプロに進むのが主流になりつつある中で大学サッカーとは何かその役割とは何なのか、という質問。もう一つは日本には10代のスターが育たないがそれはどうしてなのか、という質問です。監督の好みなのでしかたないですが、日本代表は24歳が一番若い。若い選手をもっと入れているところが多く、こういうチームは他にはあまりない、ユース世代とトップをどうつなぐか、という問題もあり、これらについては、一人一人意見を聞きたいと思いますが、先ず審判のことを浅見さんから答えてもらいましょう。
浅見 さきほどからお話している通り、サッカーはどのレベルでもルールは同じです。4級審判に対しても同じことを要求しています。教育的配慮ということでは、ルールをきちんと適用する、ルールに従ったサッカーをさせる、ということがそれであり、中学生だからといって退場がない、ということはなく、そういう意味での配慮はありません。高校サッカーとJリーグでファウルのとり方に差があるように見えるのは、審判のレベルと技術のレベルのマッチングのところで起きている現象ではないか、と思います。同じ試合でも上川君が笛を吹けば試合の流れも変わってきます。技術レベルに階層があるように審判レベルにも階層があり、そこでの差がそういう現象としておきているのだと思います。 大学サッカーの役割、あり方についてですが、先日も岡野さんと話したんですが、68年メキシコオリンピックの日本代表は、大半が大学でサッカーをしていた連中で、大卒でなかったのは、宮本(輝紀)と富沢だけでした。が、今度の代表の中で大学出身者は宮本だけです。巻もそうでしたか、とにかくこの2人のみで、しかも宮本の方は大学リーグではプレーはしていません。サッカーを取り巻く環境がそれくらい変わったということです。その中での大学サッカーということですが、学生の本分というのがあるわけで、それをきちんとやった上でサッカーをエンジョイする、エンジョイする中で、本気になって勝とうとどれだけ努力するかで、結果が1部、2部、3部となって現れる。高校も同じです。高校に入っても高校のチームではやらずクラブチームでサッカーをする人も多くなり、進路が複線化しています。このように選択肢が増えるというのは良いことです。しかし高校生になった以上は高校生の本分をわきまえて、本分というと古いですが(笑)大学生は大学生の立場をわきまえた上で、どの程度本気になってやるか、ということでランクが付いてくるという考え方だと思います。そういうところが本当に広まってくると、東大ももうちょっと復活してくるんじゃないか、と思ったりもしています。
牛木 岡野さんどうでしょうか。大学サッカーの役割が世の中でどうなっているか。
岡野 一つはやる人の考え方でしょう。はっきり言って、高校からJリーグへ行くあるいは大学からJリーグへ行く、ある意味人生設計でありその人の考え方によります。大学は自分で物事を考えるということが始まるところです。昔は中学生からでしたが、今は大学でも始まらない人もいたりしますが(笑) そうした自分で考え作り上げていく時代に運動部に入って活動するのは一つの良い経験になると思います。ただ、サッカーでメシを食おうと思うか、サッカーで楽しく生きようと思うか、スポーツの役割は色々ありますから一概には言えない。自分が何をやるかはその人の考え方です。 大学サッカーの役割ですが、我々の頃そうでしたが、東大には色々な学部の人がいる、半分以上は理科系の学生で彼らは実験がありますから練習に出てこれず、練習は12,3人で行うことが多かった。今学生リーグの一部にいる大学、固有名詞を出して悪いですが、駒沢とか国士舘、当時これらの大学にはサッカー部ありませんでした。こういうことで、環境自体が変化しています。昔はサッカーで飯を食おうということはなかったが、今ではプロができて環境が変わり選択肢が増えた、と言う見方で良いと思います。大学を出ることによって、例えば体育系大学を出れば、人に教えたり、サッカーの指導をする人も出てきます。さらに協会でも常に言ってますが、サッカーの普及や発展を考えると、スポーツマネジメント、人間としてはマネージャー、アドミニストレーターということに関して大学の授業で学んでほしいと思います。体育を取って将来スポーツ関係に進む人は、現場に近い所で活動するわけですから、日本の弱点でもあるマネジメントということについて是非勉強してもらいたい。クラブ制度を今後どうこうしていこうとする時に、こういうところの勉強は欠かせません。大学で学ぶものを何にするかによっても将来が変わってくるだろうと思います。
牛木 それでは広瀬さん、広告関係でない話で結構です。(笑)
広瀬 競技のプロではないので観点の違う話を考えてましたが、只今さすがに岡野さんが話されました。私は大学サッカーをサッカーという観点から見るということ自体変だと思います。むしろ大学のあり方全体が問われている中で、その中でのサッカー、スポーツというものを考えるべきで、別にサッカーにとって大学サッカーがどうであるか、ということは考える必要がないと思います。 もう一つ言いたいことは、今後岡野さんや川淵さんのような方は出てこないということで、このことは重要です。川淵さんは大学から企業に入り企業のトップを経験しそれからマネジメントに行っている。トップ選手の経験があり、マネジメントに関するナレッジも持っている人が今後は出てこない、スポーツ界全体にとって大きな問題です。ここにいらっしゃる方々の中にはご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、私は3年前から財団法人東大運動会と提携してスポーツマネジメントスクールを開設しており、今年は第4回になります。こうした試みが広がり新しい流れになれば今後のスポーツにとって有益だと思ってやっています。 それからもう一つ岡野さんに考えてほしいことがあります。高校からプロに入り軌道に乗ったものの3,4年目に怪我をしてプロを続けられなくなった人たちへのサポートです。大学を出ていれば、プロのキャリアが終わった時に今後のことについて何がしか考える素養がありますが、高校からプロになった人は、そのように依存できる部分もなく、世の中に放り出されることになります。彼らに対するキャリアサポート、2nd キャリアデザイニングの対策をぜひ考えていただきたいと思います。
牛木 ベテランの方々から大学サッカーについていろいろお話がありましたが、若い人たちの考えも聞いてみたいですね。遠慮なくどうぞ。
坂本 私も広瀬さんが言われたように大学サッカーをサッカーの枠内で捉える必要はないと思います。 中学校の時の仲間で高校から大学にサッカー選手で入ったのがいますが、彼らはサッカーをやめたら大学も辞めないといけないということになっています。さきほどの2ndキャリアデザイニングの話のようなところがあります。高校サッカーが一大イベントになってサッカーにものすごく力をかける学校がありますが、これらのことはサッカーに留まらず広い枠で考えると何かおかしいのではないかと感じています。 大学サッカーのあり方ということについては、サッカー部に入ったのは入りたいから入ったのであり、組織の中にいる者から見ると、あまり意味はないという感じです。でも偉大なるOBがいてサッカー部を通じてその方たちとつながっているということは一つ大事なことだと思います。サッカーを真剣にやるということはサークルでも変わらないと思いますが、OBとのつながりという点では異なります。OBになって思いますが、OBは現役のためにありその逆ではない、だから現役はOBに支えてもらっていることに感謝して謙虚な気持ちでサッカーをやればよい。OBに支えられながらサッカーに打ち込めるのが大学サッカーの良いところだと思います。亡くなられた服部監督をお見舞いに行ったとき監督から「東大からオリンピック選手を出したかった」ということを言われました。今の実力では無理だというのはわかってますが、現役に与えられたOBの遺志だと思い、現役はそれに向かって努力し、OBとしてはそうした努力をサポートしていきたいと思います。現役はOBとのつながりを理解し、自分たちだけでやっているのではないという意識を持ちながらやっていってほしいと思います。
牛木 OBは現役のためにあり、現役は感謝しながらサッカーを楽しめばよい、ということですが、現役の碇さんはどう思いますか。(笑)
現役でやってる我々としては、大学サッカーのあり方ということは考えていません。基本はボールを蹴って頑張って試合に勝てればうれしい、そうしたサッカーの楽しみを味わうためにやっているということです。運動会のサッカー部を選んだ理由は、本気でサッカーをやるということと、学校の代表として闘うのは良いことだと考えたからです。ただ大学サッカーでもトップレベルのチームは勝ちにこだわりすぎ,がんじがらめでよくないとは思います。また私もOBの支えは大変ありがたいと思っていて、学年が上がるたびに色々なところでそう思います。それに報いるためにも我々としては、頑張って今年のリーグ戦は二部で優勝できたらなと思っています。(拍手)
牛木 時間が過ぎていますがもう少し質問を受けましょうか。
参加者3 
記者席:スターサッカー誌 
利重孝夫
63年卒業の利重と申します。大会が間近に迫った時点で皆さん大変関心を持っていらっしゃると思うんですが、日本チームがどれくらいやるか、決勝トーナメントに勝ち進めるかどうか、個人的な意見ということでもかまいませんし、またここだけの話ということでもかまいませんのでお聞きしたい。もう一つは私自身サッカービジネスに関わるようになって気になることですが、ワールドカップ後代表の成績如何によって日本のサッカーがどうなるか、どういう影響を受けるのか、盛り上がり方がどう変わってくるか、ということです。色々な側面がありますが、スポンサー、テレビ放送、観客動員、子供たちが選択するスポーツなどどう変わるか、あるいは日本でもサッカーが成熟してきたので結果がどうあれ影響はないか、皆さんどう考えているでしょうか。
牛木 日本代表がどこまでやるか、予想あるいは期待ということについて、それと代表の成績によって日本のサッカーがどんな影響を受けるか、ということについて簡単に碇さんの方から(笑)話してもらいましょう。
予選突破できるでしょうか・・、(笑)可能性は6:4くらいかなと思います。代表チームの成績の影響ですが、結果がどうあれレッズファンがスタンドを満員にすることは変わらないだろうし私がサンフレッチェファンであることも変わらないと思います。(笑)コアなファンはスタデイアムに熱心に足を運ぶでしょうし、そうしたファンは離れないが、ミーハーで一時の流れでファンになっている人は減るかもしれません。好きな人は好きだということは変わらないと思います。
坂本 期待もこめてベスト16に入れると思います。理由はありませんが、日本が決勝トーナメントに行ったらいいなと思うし、そうすれば代表チームの試合がもっと見られることになりますから。ワールドカップ後のことですが、結果がどうあれ若い人たちが変わることはないと思います。今千葉に住んでますが、千葉ではJEFの方が若い人の関心が高いですし、日本代表よりも地元クラブの活躍の方をみんな見ており、自分としてもうれしい気持ちです。Jリーグのクラブの活動如何だと思います。
広瀬 競技的に言うと、ライプチヒの組み合わせ抽選会にいて微妙なグループに入ったな、と思いました。ただF1、F2で通過した時のチケットは持っています。(笑)ベスト16に進んだ場合は1週間ほど日本を離れる予定です。大会後日本のサッカーがどうなるか、盛り上がるか、盛り下がるか、という議論は飲み屋でやってもらえばよいという感じでして、私としては盛り上げることをやっています。サッカーに関係している方のためにヒントを2つ申し上げます。一つは指定管理者制度、地方自治法244条の履行、もう一つはCRM(Customer Relation Marketing)です。如何に真剣にマーケッテイングをやるかです。J31チームのうち10チームでも導入するのであれば、大丈夫だと思います。
岡野 司会ということで人にだけしゃべらせてますが、ジャーナリストですから牛木さんからも是非聞きたいですね。(笑)
牛木 私も若い二人と同じで差はありません。ベスト16の可能性は十分あると思います。全敗の可能性もあるけどブラジルを除く3チームの力はそんなに違わないと思う。大会後のことですがベスト16に入るかどうかの影響はないでしょう。メキシコオリンピック後の日本の観客が増えたと間違って伝えられていますが、サッカー年鑑を見るとわかるとおり、銅メダルを取った後盛り上がったかというと、観客は減っているんです。広瀬さんが言った通りにするのがよいかどうかは別にして(笑)それぞれの人たちがどれくらい努力するかで決まるんじゃないでしょうか。サンフレッチェが一生懸命やれば、サンフレッチェは良くなるでしょうし、JEFも同じことです。同じように日本サッカー協会が間違った政策さえ取らなければ(笑)日本のサッカーは大丈夫だと思います。 だけど岡野さんの意見を聞きましょう。(笑)
岡野 微妙な最初の質問ですが、答えは多いでしょうね。三戦全敗も高い確率であるし、ベスト16もある、そこがサッカーの面白さじゃないでしょうか。(笑)一つ不安に思っているのは、ブラジルにはサッカーの指導書がないということです。全くない、ということではないんですが、蹴る、止める、戦術をどうする、こうしたことについて書いたものがない、書いても売れない、だから書かれない。子供のころからこんなことは知っているからで、皆字を読むほうが大変なんです。(笑)ジーコも教えてもらったことがない、ストリートサッカーをやっていてスカウトの目に留まりクラブチームに入り経験をつんで自分で伸ばしていった。だから彼の指導者は誰だったか、と聞いても答えが出てきません。一方一緒にやっている日本の選手たちは一から、教科書から教わった。ですから彼らが本当の意味で理解しあっているかです。理解しあっていれば良い結果が出るでしょう。ジーコが言っている一人一人が考えてサッカーをやる、一人一人が強くなる、これは当たり前のことです。皆さんもやっていることです。東大のサッカー部だってグランドに出たら一々監督の顔を見ながらやらない、瞬間、瞬間に自分で判断してやっている。一人一人がうまくなればチームは強くなる、だから代表チームを作る、各チームのうまい選手を集めてチームを作るんですよね。一緒にやっている時間が長ければ良いならば、単独チームの方が良いのです。とすると今のように一緒にやらせていて強くなっているかは相当疑問です。考え方の違いを選手が受け止めジーコが言っていることはこんなことなんだ、と一人一人が理解し皆で議論し考え、宮本中心に、中田というのもいますが、まとまってチームの力を上げて行ってくれれば良い。もう最後の段階ですからね。でも最後にジーコがいやなことを言いましたね、日本には点を取れる感覚の選手がいないと。(笑)事実かもしれないが今さらそんなことを言われても困ります。(笑)それを作るのも指導者ですが、自分達でやれと言われてもそう簡単にいかないと思います。そういう意味でベスト16もあるし、全敗の可能性もあります。 思うのですが、日本のメデイアは良く書きすぎるきらいがあります。持ち上げてくれるのはうれしいんですが、トリノオリンピックの例がありますから。(笑)大会前はメダル候補ばかりだったのが結果はあの通りでがっかりさせられました。成田での出発式のことですが団長が挨拶をしているときに優勝候補といわれた選手、まだ少年といっても良い年ですが、彼が裸足で飛行場の床で寝ている、見送りの人たちがいる前でです。個人競技なので教えられてなかったのかもしれませんが、勝つはずがないと思いました。ところが勝つ、勝つと言われ、団長はかわいそうにメダルなしだったら坊主だ、(笑)なんて言われていたところ、最後にイナバウアーで(笑)なんとか救われました。メデイアはほめ過ぎます。新聞を見ると絶賛ということがよく書かれている、称賛というならわかるが、絶賛というのは、これ以上はない、ということです。何かあると絶賛と書きます。ゲームも日本の対戦が2−1で負けたりすると、惨敗と書かれる、1点差なんだから惜敗と書くべきなんですが。メデイアがきちんと書いてくれるとよいのですが(笑)そうすると判断もしやすい。クロアチアの選手が怪我をしたとか、オーストラリアの選手が出られそうもないという記事が出ましたが、今日の新聞を見ると、全員OKだなんて書かれている。(笑)そういうメデイアの取り上げ方が心配です。 終わった後のことですが、Jリーグをきちんと運営していく、それも一つですが、忘れてならないのは日本人はブランド志向ですし、スター好きだということです。かつてバレーが強かった時の標語を皆さん覚えているでしょうか。「男も女も金メダル」、です。バレーの試合は必ずテレビ放送されました。新聞も個人名をどんどん出して取り上げる。ミュンヘンのときの選手、猫田がセッターで、大戸、森田、横田、彼らがスパイクをスパンスパンと決めたという名前入りの記事がどんどん書かれ、私でさえ名前を覚えたくらいです。それが今はメデイアで取り上げられないため代表選手の名前は知りません。国際大会で活躍しなかったり、スター選手がいないと記事量は減ります。一番良い例は、アジアチャンピオンズリーグです。ブランド好きですからスター選手の多いヨーロッパチャンピオンズリーグのことは書きますが、アジアチャンピオンリーグは記事に書かれません。観客動員数も少ない。そういうことでメデイアの力は良くも悪くも大きい。それに対する影響を及ぼすには、国際大会で勝つかある程度の成績を収めるか、国際的な選手、スターを生み出すことです。この二つは協会としてJとして常に考えてないといけない。それから日常報道にきちっと出てくるのはリーグ戦ですから、これを面白くしてサポーターが盛り上げてくれる形になれば心配はありません。 ただワールドカップで、もし、ということをわれわれは常に考えます。私は1998年から2000年まで協会の会長を務めましたが、実はそのときアデイダスとのスポンサー契約を初めて結びました。昨日の新聞に今年以降の契約の記事が載ってましたが、アデイダスは8年間のスポンサー契約を結び、年間20億円、合計160億円を協会に支払ってくれます。品物も含めてです。私のときはそれほど金額は大きくなかったですが、年間6億円で2000年から2006年までの6年間合計36億円の契約を頼みました。何故6年としたか、2002年もし代表が良い成績を収められない時はその後の強化費が心配になる、とすればそれを越えて2006年までの強化費を確保しておきたい、ということで2000年に6年契約をアデイダスに頼んだわけです。というようにワールドカップの成績について心配は心配です。そういう手当ては川淵君も当然考えています。それはもちろん金だけについてではありません。メデイアの皆さん、まだ(Jが始まって)13年です、プロ野球は70年です。良い意味で足元を見つめて仕事をしていけば心配はないでしょう。 で結論はどちらか、ワールドカップ後のことが心配だし心配はいらないかもしれない、決勝トーナメントに行くかもしれないし行かないかもしれない(笑)きわめて不安定ですが、これが率直な意見です。
浅見 最後というのは大変なんですが、今出てきたアデイダス、世界の動向を見て戦略を考えるところで、そこが8年間の契約を結ぶのですから、アデイダスは日本のサッカーの将来に明るさを見ているのだと思います。世界のトップマネジメントが日本を含むサッカーが発展していく、と見ているわけです。私自身も大会の成績が及ぼす影響ということについては心配していません。世界中のスタンダードがはっきり分かってきてそれとの隔たりがなくなってきた、日本も世界のスタンダードに近づいてきた、ワールドカップで上に行けばまたさらに盛り上がるでしょうが、行けなかったとしても急激に下がることはないでしょう。ただ、アジアカップに出られない、ということはないと思いますが、アジアカップでベスト4にも進めない、北京オリンピック、日本人はオリンピック好きですから、ここで予選勝ち抜けず出場できないあるいは本大会で予選リーグを突破できない、というようなことが続くようだと先行きは暗くなってくるかもしれません。 予想は難しいですね。先ほど私も言ったようにブラジル以外の三つが食い合いして少しでも点を入れたほうが残るということじゃないでしょうか。予選突破の可能性はフィフテイ・フィフテイで、良い方に転ぶと良いと思います。余計なことを言うと、ブラジルには1回勝っています。今度のチームに当時の選手が何人か残っています。2勝してても戦う気持ちがどうかで、点数に影響が出てきます。アトランタのリベンジなんてことで本気になってきたらえらいことになる可能性もあります。ただ川口がまた全部セーヴしてくれるかもしれませんが。(笑)アトランタの時は私は団長で行ってましたが、あの時試合前に選手たちに言ったこと、‘For your best and good luck’今回もまた言いたい気持ちです。希望としては上に行ってほしい、チャンスはフィフテイ・フィフテイだと思います。                                                                                                                       
岡野 ちょっと客観的な意見をお伝えだけしておくと、今年のワールドカップを記念して昨年から今年3月まで日本におけるドイツ年というのが行われていて、私も知らなかったんですが、日本人のドイツに対する大使に久米宏がなっていたそうです。先日あるパーテイで会った時彼が言ってたんですが、「ジーコはすごい自信を持っていますね、ブラジルではインタビューを受けると必ず日本が勝つと言っているそうです。今一番心配しているのは、日本が勝った時家族がどうなるかだそうです。」(笑)これくらい自信をもっていますから大丈夫かもしれません。(拍手)
牛木 期待しましょう。15分の予定が40分以上もオーバーしてしまいましたが、もう一つ質問がありまして、ジーコの次は誰がよいでしょうか。(笑)これは岡野さんも浅見さんも答えるのは具合が悪いでしょうから、私が勝手なことを言います。ジーコの後はJEFのオシムがいいと思いますね。オリンピックの方は反町で決まっているそうですから。彼のJEFの試合の後の記者会見で言うことが面白いし、試合について的確にコメントしています。ちょっと年を食ってるかもしれませんが、年令がいくつだったか。65歳ですか。まだ若いですよね、少なくとも今日の講師より若い。(笑) ということで今日はどうもありがとうございました。
司会 牛木さんどうもありがとうございました。シンポジウムの講師、パネリストの方々と参加くださいました皆様にお礼申し上げます。また閉会に当たり、本シンポジウム開催の労をとっていただいたLB会の皆様にも東大サッカー部からお礼を申し上げます。皆様どうもありがとうございました。(拍手)

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資料1

「競技規則、審判から見た最近のワールドカップ」


資料2

東京大学五月祭シンポジウム
サッカ−部OBが語る「ワールドカップとその世界」

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